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最新更新日時: 2017年09月30日 13時06分
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複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)
ベンヤミンは写真芸術を中心とした複製の時代になって芸術の「ほんとう」や一回性が失われてしまったという。この「ほんとう」や一回性にまつわる事象のことを彼はアウラと呼び、古典的かつアウラを持っていて希少な古典的芸術作品の価値を礼拝的価値とし、複製可能な芸術作品の価値を展示的価値としてその過去と現在と未来を語る。
 一般的に希少性があるのものを財というだろう。複製可能で誰の手にもいつでも手に入るとなると財の希少性は逓減していく。礼拝的価値の行き着く先は私有財であり、展示的価値が行き着く先は公共財(またはオークション)となる。上流階級による芸術的な権威が失われていく中で市場が発達し印象派を筆頭とした「天才」の時代がやってくるが、ベンヤミンは公共財となる(あるいは商品となる)芸術を淡々と受け止めその行く末を書き記して行く。
 私たちは公共財としての芸術の歴史を今となっては知っているし、複製芸術の実状がベンヤミンが批判する「奴隷のためのひまつぶし」というほど低俗なものでもないことを知っている。大衆の芸術鑑賞が映像機器のモニタリング(「カアサン今度ノハ映像ノ質ガ良イネー」的な)以上のことをしているのも野生の本能でなんとなく感じとっている。
 今日私たちはデジタルメディアの世界に生きている。あまりに簡単に複製可能な時代となったために、著作権者はコピーワンスなどのプロテクトを作って逆に芸術の一回性を保とうとしているがこれは宗教的な理由からではなくて逓減する財の希少性を高める方法をあの手この手で考える必要があるからだ。
 そういう意味では芸術の価値付けのために今一度、複製芸術が意識されはじめたあの頃に帰ってベンヤミンの話しに耳をかたむけるのも参考になる。実際ベンヤミンの話を聞いているとかつてアウラや魔術師の時代が「ほんたうに」あった気にもなってくるし、駄法螺寸前でシャーマンだとかビックバンについて飲み屋で訊かされる事もあるだろう。あるいはコピープロテクトをはずされたゲームがP2Pで出回ってる事を知った関係者が「あ、アウラがぁ〜!」といって秋葉原の事務所の階段から転げ落ちる、という光景を実際まのあたりにする事もあるかもしれない。
 複製インフラが発達する中で原理主義的に芸術のための芸術崇拝にたちもどるファシズムをベンヤミンは警戒しており、この文章の書かれた一つの大きな理由になっている。ファシズムだとか赤旗に興味がなくたって、歴史も公共性もない「古参の」バイヤーたちが恣意的に芸術作品の価格を操作できそれが古典やアウラや「ふとくていたすうのひとのためのりえき」の名の下に行われるような事があるなら他人事だって眉をひそめたくなるだろう。本来は現在生きている作家たちのための市場を訳も分からない権威や利得のために荒らされるのはごめん被りたい。イデオロギーの陰すら無い、いわゆる「科学的な」客観性にも閉口するばかりだ。
 ある「気づき」としてベンヤミンのこの文章はたいせつなものだが、学園ドラマの不良の様に、俺は腐ったミカンじゃねえ、俺にできるのは映像機器のモニタリングだけでなくて、積極的な芸術の参加もできる、とベンヤミンに言ってやることはできる。文化は成熟しており今や批評の時代になった。あなたの耳も楽器であり、あなたの目も絵筆であり、記憶がそのとき作品を運ぶ小舟になる。
作成: 2011年01月09日 22時27分 / 更新: 2011年01月09日 22時35分

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