チリのクーデター |
1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。 こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。 このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、実際には、60年代には4.5%を記録していたGDPの平均成長率は、経済政策導入後、1974年から82までの間のGDPの平均成長率は1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低い。また、1970年から80年におけるチリの人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体の人口あたりのGDP成長率40%よりも低かった。また、1973年には4.3%であった失業率が10年間で22%に上昇。貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期はシカゴ学派を政権から追い、ケインズ政策を導入し軌道修正を図った。その結果、貧困層の収入は3割増加し、また、貧困層の割合はピノチェト時代の45%から30%にまで低下した。 しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙で敗北すると、1989年12月に行われた選挙で、保守で反ピノチェト派の民主主義を求める政党連合=キリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが僅差でピノチェト派の候補に勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に民政移管することになった。 >>(チリ - Wikipedia) |
不屈の民 |
不屈の民 という曲があります。 ビクトル・ハラ というシンガーソングライターが チリにいました。 民衆の立場で語り 社会の不正に対して抗議の姿勢をとる 「新しい歌」運動の一人でした。 1973年クーデーターが起こった時 ビクトル・ハラは軍部に抵抗した 7000人もの人々と共に スタジアムに収容されました。 そこで過ごした2日間 歌ってみんなを励ました。 軍人たちは怒ってギターを取り上げました。 「歌えるものなら歌ってみろ!」 脅迫されたハラは 今度は手拍子で歌い続けました。 兵士は彼の両腕を折り さらに指を銃でメチャメチャに 打ち砕きました。 それでも立ち上がって歌おうとした彼は 剣で口元を切られ 最後に雨のように機関銃を撃ち込まれ 死にました。 34才でした。 34年前の9月11日チリで起こった話です。 今でも多くの人達が その歌をうたって平和を訴えています >>(不屈の民-SUTTOKO-DOKKOI) エル プエブロ ウニド ハ マス セ ラ ベン シ ド |
女島チェロキー |
女島 笑点の座布団十枚と古事記を題材にした チェロキー レイ・ノーブル(Rey Noble)が作詞・作曲した |
夫婦電車 |
夫婦愛をいろこく描いた ゼンダライオンの歌に酷似 |
A列 |
1939年にデューク・エリントンが楽団のピアニスト兼作編曲者であったビリー・ストレイホーン (en:Billy Strayhorn) に作詞・作曲をオーダーして作られた作品である。1941年2月15日にエリントン楽団の演奏でレコードが発売され大ヒットした。 以来、エリントン楽団のテーマ曲として広く知られている。エラ・フィッツジェラルドとの競演でも名高い。 >>(A列車で行こう (ジャズ) - Wikipedia) |
エーデルワイス |
エーデルワイス(英: Edelweiss)は、ロジャース&ハマースタインのコンビによるミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の中で歌われる歌である。トラップ大佐が、ドイツに併合され消えゆく祖国オーストリアを想い、オーストリアの象徴としてエーデルワイスを愛でて歌う。 >>(エーデルワイス (音楽) - Wikipedia) |
一月一日 |
年のはじめの 例とて、 終なき世の めでたさを、 松竹たてて、門ごとに いはふ今日こそ たのしけれ。 一月一日(いちがついちじつ)は、元旦にちなんだ歌曲。稲垣千頴作詞によるものと、千家尊福(せんげ・たかとみ)作詞によるものの2曲があり、後者のほうがよく知られている。 千家尊福作詞、上眞行(うえ・さねみち)作曲による「一月一日」は、明治期から戦前にかけて唄われた小学唱歌。フジテレビ系列で新春に放送される「新春かくし芸大会」のテーマソングの原曲として有名である。歌い出しから「年の初め」がタイトルだと思っている人が多い。 なお、作詞の千家尊福は出雲大社第80代出雲国造であり、出雲大社神楽殿の東側には「一月一日」の歌碑が建っている。 >>(一月一日 - Wikipedia) |