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最新更新日時: 2011年12月31日 18時06分
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遠野物語・山の人生 (岩波文庫)
「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子どもを二人まで、まさかりで斬り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとは十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼き小屋で一緒に育てて居た。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢えきって居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であったと言う。二人の子どもがその日当たりの処にしゃがんで、頼りに何かして居るので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。おとう、此れでわしたちを殺して呉れと言ったそうである。そうして入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えも無く二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕らえられて牢に入れられた」
柳田国男さんの「山の人生」は大正14年に書かれているが、その当時の思い出が「故郷70年」の中で語られている。明治三十五年から十余年間、柳田さんは法制局参事官の職にあって、囚人の特赦に関する事務を扱っていたが、この炭焼きの話は、扱った犯罪資料から得たもので、これほど心を動かされたものはなかったと行っている。「山に埋もれた人生」を語ろうとして、計らずも、この話、彼に言わせれば「偉大なる人間苦の記録」が思い出されたというわけだったのです。
 柳田さんは、田山花袋と親しくしていたが、花袋が小説のタネを欲しがっていたので、これを話した事がある。すると花袋は、「そんなことは滅多にない話で、余り奇抜すぎるし、事実が深刻なので、文学とか小説とかに出来ないといって聞き流してしまった」と書いている。これは注意すべき言葉です。そして、「田山の小説の如きは、こういう話の内容に比べれば、まるで高の知れたものである」と言っている。柳田さんは田山花袋を決して軽蔑などしていなかった。それは花袋が亡くなった時に書かれた「花袋君の作と生き方」という情理を尽くした名分を読めばよくわかるので、人間を制約する時代の力も強かったが、この真面目すぎた好人物が、後生大事に小説を書いているうちに、結局は己れが築城した自然主義の山頂に、あまりにも個人的な生活の告白のうちに、立てこもってしまったのは残念な事だと言っている。

小林秀雄
作成: 2009年12月22日 06時25分 / 更新: 2011年02月19日 18時52分

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